「宗教と文明 非西洋的な宗教理解への誘い」という副題の通り、この著作は、比較宗教学であり、文明論であり、ヨーロッパ的理性(ヨーロッパ中心主義)への批判的考察でもある。広範囲で難解な問題を、一般の方々に解りやすく述べることを目的としている。
宗教学は、西洋世界が様々な宗教に出会った「驚き」から始まった。西洋は、キリスト教が唯一の宗教であると理解し、その他の宗教を排除してきた。しかし、大航海時代以来、世界に進出するヨーロッパは、様々な宗教に出会うことになる。その経過を紹介しながら、宗教学がいかにキリスト教中心主義的かが明らかにされる。例えば、レリジョン(宗教)という概念そのものが、キリスト教を前提している。そこで「宗教」の定義を様々に試み、宗教学者の数だけ宗教の定義があるという様を呈していることは、周知のことである。とはいえ、学問すべてがキリスト教文明を前提しているので、実は、これは宗教学だけの問題ではなく、理性そのものの問題へとひろがる可能性をもっている。こうした状況が面白く、解りやすく述べられている著作である。
著者の批判は表題の通り、日本の自然崇拝をアニミズムと理解するヨーロッパ中心主義的な姿勢に向かう。アニミズムは自然に人格性を認める信仰形態である。それはヨーロッパから見れば、低級な原始的な宗教と見なされる。しかし、日本人の自然崇拝には人格性がない、もしくは稀薄である。そもそも日本古来の信仰には、人格性は稀薄である。浄土真宗でも、阿弥陀如来の人格性が問題になることなど殆どなく、むしろ、「不可思議」が強調されるのもこの伝統と無関係ではないかもしれない。これに対して、キリスト教では、神の人格性を大切にし、祈りという概念も、この神の人格性を前提としてこそ成り立つと言える。日本人にとって祈りといえば、現世利益を祈ると捉えられ、キリスト教的な神の人格性と向かい合うというような祈りは理解しにくい。こういう問題を指摘したのが、先の「浄土真宗、祈りを公認」という問題であろうかと思われる。信仰対象に人格性がないことを理解できないヨーロッパから見ると、日本の自然崇拝はアニミズムとならざるを得ない。一方、日本人からは、キリスト教の祈りが理解し難いのである。
著者は、他の宗教を理解する方法として「類比的共感的理解」を提唱する。なるほどと思わせられる一方、この方法によるともはや宗教学は成り立たなくなり、比較文明論の一部になってしまうのではないかと思わせる。それほど宗教をひろく捉えることになるのだ。例えば日本の会社で行われる「朝礼」などが、他の民族の宗教が持つ社会的機能と「類比的共感的」に比較されることになる。この辺には、少し疑問を感じつつ、大変面白い著作なのでぜひご一読をおすすめします。
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