国際連盟

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国際連盟(こくさいれんめい 英:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1920年に発足した史上初の国際平和機構である。 略称は連盟。本部はスイスジュネーヴに置かれていた。

目次

国際連盟の沿革

設立

アメリカ合衆国大統領ウィルソン(=民主党)の十四か条の平和原則により提唱され、ヴェルサイユ条約の第1編に基づいて国際連盟規約が定められたことで設立された。原加盟国は42カ国で、最終的に60カ国以上が加盟している。

提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加していない。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった。

経緯

1920年代には小規模紛争解決の成功例もあるが、第二次世界大戦を控えた1930年代には、1933年日本ナチス・ドイツが、1937年イタリアが連盟から脱退、その後も枢軸側中小国の脱退が相次ぎ、大規模紛争の解決に対する限界を露呈した。また、1925年コスタリカが地域紛争の解決失敗を理由に、1926年ブラジル常任理事国入り失敗を期にそれぞれ連盟を脱退していたが、1930年代後半から中南米諸国の脱退が急増した。そして第二次世界大戦の開始に伴い、連盟は機能不全に陥り、1939年12月の理事会においてフィンランド侵略を理由に1939年にソヴィエト連邦を除名したのを最後に、理事会、総会共に活動を休止した。

国際連合の発足後の1946年4月に第21回総会を開催し、投票により連盟の解散と資産を国際連合へ移行することを決定した。 国際司法裁判所や、国際労働機関は国際連合に引き継がれた。

機構

  • 総会(Assembly)
  • 理事会(Council)
  • 事務局(Secretariat)
  • 常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice)
  • 国際労働機関(International Labour Organisation)

他に常設委任統治委員会、常設軍事諮問委員会、軍備縮小委員会、法律家専門家委員会などで構成される。

発足当初の常任理事国は、日本フランスイギリスイタリアの4か国である。

国際連合とは異なり、最高決定機関は「理事会」ではなく「総会」であった。また決定方法は多数決ではなく「全会一致」を原則としていたことや、軍を組織することができず軍事的制裁は行えなかったために経済制裁を行うまでの権限を有するにとどまったことから、紛争解決に効果を発揮できなかったことが指摘される。ただ、世界における現実の紛争に必ずしも有効な解決策を提示できなかったとしても、史上初めて、国際機関として参加国の総意を以って意見を集約をするという理念は、評価されるべきものと考えられている。

紛争処理以外では効果を上げたとする指摘もあるほか、満州事変に関する日本への勧告や、エチオピア侵攻に際してのイタリアへの経済制裁等、常任理事国が関係する紛争に対しても可能な限り対応した点では、現在の国際連合では常任理事国が関係する紛争の処理が困難であることと比べ、評価されるべきであるとの意見もある。加入国が対等の立場において意思決定に参画するシステムは、平等の見地からは評価されるべきものであるが、実際には大国が小国を動かすことによって、国際連盟における世論を構築することが可能になる制度であるとの批判がある。後継の機関ともいうべき国際連合においては、常任理事国に一定の優越する地位が与えられている。

大日本帝国の貢献と脱退まで

大日本帝国(以下日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造が選ばれるなど、日本は中核的役割を担っていた。 日本はヨーロッパから離れていたためにヨーロッパ諸国間の紛争に比較的利害を持っていなかったことから、概ねヨーロッパの紛争ギリシア等)に対しては公平な第三者として調停を行うことができたと評価される。

柳条湖事件を契機に日本が満州全土を制圧すると(満州事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満州国を建国した。これに抗議する中国中華民国)は国連に提訴。国連ではイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。リットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中国に返すように報告書に記した。

1933年2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の賛成多数で可決された。可決直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。

その後、同年3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。以後、日本は日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約などを結び、第二次世界大戦への道を進むことになる。

関連項目

外部リンク