シリアを追われ……浜辺に打ち上げられたクルドの男の子とその家族
- 2015年09月7日
3歳のアラン・クルディ君はシリア・コバニ出身だった。今月2日に遺体となってトルコの浜辺に打ち上げられ、その写真が世界を駆け巡った。移民問題の悲劇を一気に浮き彫りにする1枚の写真だった。
アラン君はに2日の朝、父アブドラさん、母リハナさん、5歳の兄ガリブ君と共に、トルコからギリシャのコス島を目指して出発した。その数時間後、アブドラさんだけが生きてトルコに戻った。妻と息子2人は溺れて死んでしまった。
クルディさん一家はカナダに住むアブドラさんの姉テーマさんに再会しようと、カナダを目指していた。
トルコのリゾート地ボドルムから2隻の船に乗って出発するグループに参加。一緒にいた23人のうち14人が死亡したとみられている。
それでも数字だけ見ると、今年の夏に地中海で頻発した移民の大量死の中では特に多い人数ではない。しかし惨事をとらえた映像や写真が、アブドラさん一家の悲劇を特別なものにした。
転覆した船から水中に放り出されたアラン君は溺死し、そのまま波によってボドルムの浜辺に押し戻された。砂にうつぶせて倒れているアラン君は赤いシャツに青い半ズボン姿。その体はあまりに小さい。別の写真では、制服姿の警備兵に抱きかかえられている。
BBCを含めほとんどのメディアが男の子の名前を「アイラン(Aylan)」と表記したが、カナダに住む伯母のテーマさんは、これはトルコ当局が発表したトルコ風に変えた名前だと説明。クルド語の名前は「アラン(Alan)」なのだという。
国がなく
シリアのクルド人として、クルディさん一家のカナダ亡命が認められる可能性は、トルコに向けて出発した当初から、かなり低いものだったに違いない。
シリア政府は長年にわたり国内のクルド人に市民権を与えず、クルド人は国のない人々として扱われていた。2011年の政府命令で一部のクルド人の市民権申請が認められたが、申請資格を認められないクルド人も多く、そもそも申請できる前に国外脱出を余儀なくされるクルド人が大勢いた。
クルディさん一家は2011年後半にシリア内戦が始まるまで、首都ダマスカスに住んでいた。戦闘が激化すると、北部コバニから25キロのマハリジ村に戻った。
しかし2014年後半には、コバニの町がクルド人勢力と過激派勢力「イスラム国」(IS)の戦闘の中心地になってしまった。一家はほかの数万人の住民と共にトルコへ脱出。開かれていたトルコの国境を越えることで避難はできたが、難民としての資格は伴わなかった。
シリアの周辺国で難民危機に正式に対応したのはトルコが最初だった。2011年10月に、一時的な保護政策を導入し、シリア難民は帰国させないと約束したのだ。
この保護政策のもと、パスポートをもつシリア人はトルコに1年滞在できるし移動も認められるようになった。しかし旅券などの書類がないと、難民キャンプに登録しそこに留まるか、違法滞在者としてキャンプ外にいるしかない。
中途半端な状態で
シリア市民権が認められずパスポートのないクルディさん一家も、この「違法」状態でイスタンブールに留まるしかなかった。そしてどうしてもトルコを出たいと願っていた。
クルド人の多くがこのどっちつかずの中途半端な状態を強いられている。パスポートがないためトルコを出国するビザが得られず、出国ビザがないためよそで難民認定を受けることができないのだ。
アブドラさんの姉テーマさんは、バンクーバーで美容師として働く。カナダに弟一家を呼び寄せようと、後見人となって「G5」難民ビザをカナダ政府に申請した。
「私が後見人になって、友人や近所の人に手伝ってもらって必要な預金額を揃えていた。けれどもトルコから正規に出国させられなくて、だから船に乗ったんです」とテーマさんは言う。
一方で、カナダの移民局は、アブドラ・クルディさんと家族の難民申請を何も受けていないと説明している。
移民局の担当者はBBCの取材に対して「(アブドラさんとテーマさんのきょうだいと思われる)モハマド・クルディさんとその家族からの申請はあったが、難民資格認定に必要な証明の要件を満たさなかったため、受理しなかった」と回答した。
テーマ・クルディさんは後に記者会見で、アブドラさんと家族のための難民申請を提出していなかったと明らかにした。
クリス・アレクサンダー移民担当相は3日、「クルディ一家の件について情報を把握し、難民危機について最新の情報を得るため」関係担当者と会合を開くと話した。
親族によると、クルディさん一家は過去に3回、トルコ出国を試みたがいずれも失敗に終わった。2日に船に乗ったのが4度目で、まずイズミールにいる人たちの協力を得てボドルムに向かい、そこから船でギリシャ・コスへ向かった。船旅のために払った費用はおそらく4000ユーロ(約53万円)。一家のカナダへの飛行機代の数倍の金額だ。
そして言うまでもなく、旅は失敗に終わった。小さい2隻の船は出発して数分後に高波に襲われ、船長は飛び降りて逃亡。水中に放り出された息子たちを、アブドラ・クルディさんは必死になって助けようとした。
自分の家族がいかにして溺れてしまったか、アブドラさんはあまりに辛い様子を細かく語ってくれた。
「子供たちと妻をつかまえようとしたんですが、望みはなかった。ひとりまたひとりと死んでしまった」
「自分で船を操縦しようとしたんですが、次の高波が来て船が転覆してしまった。その時のことです」
「世界でいちばん美しい子供たちでした。自分の子供が世界で一番大事だと思わない親など、いるんでしょうか?」
「最高の子供たちでした。毎朝あの子たちに起こされて、一緒に遊んでとせがまれていました。それより美しいことがありますか」
「すべてなくなってしまった」
「家族の墓の横に座りたい。そうやってこの痛みから楽になれたらいいのに」
アブドラさんは家族の遺体と共にイスタンブール経由でコバニに戻り、4日に埋葬された。